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佐々木 元(ささき げん〔キネ旬, p.190.〕〔人名録, p.307.〕〔読み方, p.42.〕、1939年7月28日 - 1997年)は、日本の映画監督である〔〔〔〔年鑑, p.138, 156, 174, 180.〕〔国立国会図書館サーチ 検索結果、国立国会図書館、2015年1月21日閲覧。〕〔''Hajime Sasaki''(表記誤記), インターネット・ムービー・データベース 、2015年1月21日閲覧。〕〔''佐々木元''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2015年1月21日閲覧。〕〔''佐々木元''、文化庁、2015年1月21日閲覧。〕〔''佐々木元''、KINENOTE, 2015年1月21日閲覧。〕〔''佐々木元''、allcinema, 2015年1月21日閲覧。〕〔''佐々木元''、日本映画データベース、2015年1月21日閲覧。〕〔''佐々木元''、日活、2015年1月21日閲覧。〕〔''佐々木元''、デジタル・ミーム、2015年1月21日閲覧。〕〔大蔵映画黎明期プログラムリスト 、''PINK HOLIC'', トライワークス、2015年1月21日閲覧。〕。 == 人物・来歴 == === 記録映画・テレビ映画から成人映画へ === 1939年(昭和14年)7月28日、長崎県北高来郡小野村大字小野島(現在の同県諫早市小野島町)に生まれる〔。本名は不明であるが、姓は「春野」〔壺さがし 三番勝負 、東京国立近代美術館フィルムセンター、2015年1月21日閲覧。〕(はるの)であるという〔『悶え狂い』の噂に悶え狂う…! 、2005年10月27日付、2015年1月21日閲覧。〕。 1955年(昭和30年)4月、長崎県立諫早高等学校に進学する〔。2学年下の後輩に、のちに脚本家となる市川森一がいた〔故市川森一さんらに感謝状 諫早高創立100周年 、西日本新聞、2011年12月13日付、2015年1月21日閲覧。〕。1958年(昭和33年)3月、同校を卒業して東京に移り、早稲田大学政治経済学部に進学するも、満23歳を迎える1962年(昭和37年)には同学を中途退学する〔。その後は、織田良一郎の芸術映画社、大映テレビ室(現在の大映テレビ)等の記録映画、テレビ映画の製作会社で製作部や演出部の助手を務めた〔。高橋伴明(1949年 - )によれば、佐々木は大男であり、助監督時代は「いつも素足に下駄履きという出立ちで飲み屋街を闊歩」「武勇伝は数限りなく聞かれる」という、極めてバンカラなものであったという〔。高橋は『㊙欲情物語 ボディー洗い』(1971年)のクレジットに「高橋伴」の名で、佐々木のチーフ助監督を務めている記録がある〔。 その後、成人映画の世界に転身し、撮影所の育ちで高橋伴明曰く「完全・緻密志向」の新藤孝衛(1932年 - )、西原儀一(1929年 - 2009年)の助監督につく〔。1966年(昭和41年)6月、満26歳にして監督に昇進、同年8月に公開された辰巳典子の主演作『原色の世代 脱がされた制服』で監督デビューする〔。高橋伴明によれば、佐々木の作風は新藤・西原の両師に似ず、「それを糾弾するかのように演出は大胆で自由奔放な方向へと傾斜」したという〔。『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで黎明期のおもな脚本家・監督として、若松孝二、高木丈夫(本木荘二郎の変名)、南部泰三、小林悟、新藤孝衛、糸文弘、小川欽也、小森白、山本晋也、湯浅浪男、宮口圭、藤田潤一、小倉泰美、浅野辰雄、渡辺護、片岡均(水野洽の変名)、福田晴一、深田金之助の名を挙げているが、師の西原儀一の名もなく、佐々木についても言及されてはいない〔田中, p.85-86.〕。1968年(昭和43年)10月1日に発行された専門誌『成人映画』第33号で行われた「主流監督6人座談会 五社のピンク攻勢くそくらえ!」では、渡辺護(1931年 - 2013年)、向井寛(1937年 - 2008年)、山下治(1936年 - 没年不詳)、奥脇敏夫(1938年 - )、新藤孝衛とともに選ばれ、座談を交わしている〔成人映画, p.4-9.〕〔鈴木, p.114.〕。同座談会では、ほとんど向井がしゃべっており、佐々木の発言はただひと言、自分の与えられた製作予算の数値を220万円と述べた部分だけが収録されている〔。 高橋によればこの時期の頂点は、1969年(昭和44年)2月に公開された一星ケミの主演作『悶え狂い』であり、「それまでのピンクの常識を破ったものとして注目された」とする〔。金井勝によれば、金井は同作の撮影技師を務めており、脚本にクレジットされた「立花豊」〔、2015年1月21日閲覧。〕とは「鈴木清順グループ」、つまりは「たぶん田中陽造」であるといい、野田真吉が同年の『映画芸術』のベストテンに投票したという〔。1970年(昭和45年)12月に発行された雑誌『シナリオ』通巻第270号で行われた座談会「ピンク映画プロの諸問題 二〇〇万円の中の自由」では、監督の木俣堯喬、梅沢薫、脚本家の下飯坂菊馬、脚本家で同誌編集長の山口権士とともに、座談を交わした〔〔シナリオ, p.42-51.〕。 1971年(昭和46年)11月、老舗であり大手五社の一社であった日活が成人映画路線に全面的に舵を切り、「日活ロマンポルノ」(1971年 - 1988年)を開始するが、佐々木は基本的にはこれに参加していない〔〔〔〔〔〔〔〔〔。1972年(昭和47年)1月に公開された『色道魔』は、近親相姦をテーマとした作品であり、高橋によれば「営業用作品群に背を向けた彼のささやかなプロテスト」であるという〔。高橋は、1976年(昭和51年)12月24日発行の『日本映画監督全集』で、「この作品を境に業界の商業ペースに組み込まれていき、9年足らずで120本以上を作り、「昼メロを撮り続けてきたような気分だ」と言い残して1972年業界を去った」と書いているが、翌1973年(昭和48年)以降も佐々木は作品を発表している〔〔〔〔〔〔。1974年(昭和49年)7月6日に公開された泉ユリの主演作『情事の果て』が日活の配給により公開されているが、同作は外部製作によるものであり、佐々木にとっての最初で最後の「日活ロマンポルノ」であった〔〔〔〔〔〔〔〔〔。いくつかのデータベースでは、佐々木が監督しプリマ企画が製作、日活が配給した旨の記述が散見されるが〔、これは代々木忠の監督作との混同である〔。 1975年(昭和50年)6月1日に公開された東祐里子の主演作『枕絵草紙 女狩り道中記』を最後に、作品歴は途絶えている〔〔〔〔〔〔〔〔〔〔。満36歳の誕生日を目前とした引退であった。高橋は「映画監督をやめたあとは大衆酒場を経営、自らカウンターに立っている」と、『日本映画監督全集』が発行された当時の近況を伝えている〔。『ピンク映画水滸伝 その二十年史』を現した鈴木義昭も、同書が発行された1983年(昭和58年)当時の近況として「現在は酒場を経営していると聞く」と書く〔鈴木, p.118.〕。神奈川県藤沢市、同鎌倉市で酒場を経営していたが、1997年(平成9年)に死去した。満57-58歳没。佐々木について、野上正義(1940年 - 2010年)はのちに「あまり知られていないが、黄金期の監督のひとり」と評した〔野上, p.241.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐々木元 (映画監督)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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